あかりちゃんいく?

 主任ケアマネ5日目。今日もスーパービジョン研修。連続してつづくといやでも、頭がスーパービジョンで洗脳されていく。しかし、ここ20年でかなり浸透してきたスーパービジョン。私が就職したころは、職場でのスーパービジョンなど皆無だったし、外部のスーパーバイザーもなかなかいないのが現状で、時折研修で話を聞いても、そうはいっても無理だよねとか、上司の理解、職場の理解は得られないのが一般的だった。しかし、今日は介護系、看護系が多いケアマネの前で、講師は正々堂々とソーシャルワーク論をわかりやすく展開していた。ほんとうにわかりやすく。先日の実習指導者研修もそう感じたが、20年ひと昔時間は着実に過ぎて、専門性は進歩し普及している。隔世の感。全国で行われているケアマネージャー研修でこのようにソーシャルワーク論が展開されているのだから、介護保険は社会福祉の専門性を広めている。

 宿題の事例をコピーしておらず、昼休みにコンビニへ行くと先客がコピーしていた。「すみませんね。もう少し時間がかかります。」と先客のケアマネが謝る。人が好さそうなケアマネとみてずにのり「あのークリップ余分に持ってませんか?もらえませんか?」とずうずうしく頼むと会場に戻ればありますと言う。お礼を言い、次に自分のコピーをしてると、彼女が自分のコピーのクリップをはずして、私に二つくれた。
 研修会場のケアマネはみんな謙虚で、やさしい。お母さんみたいだ。まじめに講師の話を聞き、まじめに作業に取り組む。こんなにやさしいケアマネだ。本人の意向にそった方向でしないわけがない。サービスの適正化、効率化をいくら国がすすめても、母性にはかなわない。社会福祉の理念、技術がこうやって、社会福祉士以外でのどんどん活用され、社会福祉士の専売特許ではなくなるのかもしれない。
 そんなことを考えていたら、講師みたいに、資格に付随する専門性ではなく、本当にもっとソーシャルワークを身につけに外国に行きたいと思ってきた。明りをつれて。

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恋の予感

 先週から研修が続いていた。土日は待望の社会福祉士実習指導者養成研修。ここ数年養成研修と名のつく研修をいくつも受けてきた。福祉現場は養成研修ばやりだ。スーパーバイザー養成研修、成年後見人養成研修、独立型社会福祉士養成研修・・・主任ケアマネージャー養成研修。
 おなじ社会福祉士でも、研修をうけなければ認められない。専門性をどんどん細分化して、差別化して、ついでに利権をもたらす。
 しかし、その道の知識は進歩しても、基盤となる社会福祉援助技術はどんどん薄まって低下さえしているような気がする。

 普段あまり仲間と話す機会が少ない職場なのでというか一人職場のため、集合研修やグループワークはとても楽しくてついつい余計なことを言ってしまう。同じグループの年下の男性が文庫本を読んでいてすぐ隠した。私が「東野圭吾とか読んでいそう。」と唐突に言う。何をもって読んでいそうなタイプだというのか思いついたままぽんぽんと口から軽率に言葉が飛び出てしまう。すると「たくさん持っていますよ。」
 
 昨日のグループの席に着こうとメンバーを見ると明らかに私より全員年下で軽くショックをうける。「後見って大変そうですよね。」「いーえいーえ全然大変じゃない。なれればどおってことないですよ。」「独立して事務所持ってるなんてすごい」「今年度が今まで一番収入が多かった。そんな難しくないですよ。」軽ーい言葉で答えてしまう。勢い余って「後見は責任重大とか、倫理観が大切とかみんなもったいぶって言ってるけれど、社会福祉士の仕事はみんな何だって大変で同じくらい倫理観は必要だよ」と普段あまり話さない年下の社会福祉士に囲まれて興奮気味に話す。しゃべってしまってしまったといつも思う。しゃべりたいときは自重が必要だ。

 これで実習指導者になれる。お金にはならないけれど、事務所の仕事の整理にもつながるし、力量アップにもつながる。人に教えると言うことは、自分の理解も促進される。一人くらい受けてみたいものだ。スーパービジョンの先生はさすが、ルーテル福山先生の教え子という感じの先生だった。やっとスーパービジョンがすとんと得られた感じがする。

 今年は今までと少し違う感じの展開になりそう。恋の予感と似ている。

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顔が丸い

 主任ケアマネ4日目。コミュニティーソーシャルワーク講義と演習。本日の授業が研修の中で一番楽しいものだった。
 となりの受講生と話をしてている中で「その人AVをやっている・・・・。」「・・・・」じーと目を見つめてしまってAV女優なのか?AV関係の仕事をしてるのか?
 連想力がないせいか、想像力がありすぎるのか、気が利かないせいか、言いなおされるまでDVだと気がつかなかった。

 講師が上手なのか内容が良かったのかどちらでもあるしどちらでもない。結局は私が一番興味のある関心のある内容だったから、楽しかったのだ。好きこそものの上手なれ。どんなに素晴らしい授業でも聞く気のない人が相手だと身にならないし、聞く気がある人だと身のあるものとなる。
 どちらにしても、まじめなケアマネたちは、まじめに考えてまじめに答えていた。そして利用者はまじめな生活を演じることとなる。
 
 講師は大橋センセイの弟子のようで何度も大橋先生はと繰り返していた。そうそう。大橋先生はとっても発想や中身が素敵だし、ついつい崇拝したくなる。

 明りが学校の担任の先生に「先生は牛に似てる。」と面と向かっていたそうだ。すると先生は「あかりちゃんそれは!かなしい」と答えたそうだ。「H先生とってもやさしくて大好きなんだけど・・」「だけど?」「顔がまるいのよね」明りは人の見た目を重視する。

 地域福祉は好きだだからこんなに授業を聞いていてドキドキするのだが、結局私は挫折組だ。挫折組からどうしたら復活できるのか考えていた。この講師みたいに指導者として地域福祉を説くのか、今の立場で実践するのかどちらかだ。後見人の立場でどれだけやれるのか、事例をまとめて、地域福祉学会で発表するのかそんなことを考えながら授業を聞いていた。

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本当に大変か

 有料老人ホーム見学4件目。
関東の冬の空は青く高い。空気は冷蔵庫のように冷たくても、お天気さえ良ければ、晴れ晴れとして気分で移動できる。
 朝銀行に電話して、相続の手続きの確認をする。やけにスムーズだなと思ったのもつかの間、お昼に補助者のT女子を乗せてホームに向かって移動していると銀行からまた電話がある。本部で遺言と戸籍謄本のコピーを出してくれと言われたらしい。今日ですか?来週手続きに出向こうと思っていたらその日に本部から戻ってくる?誰が?書類が戻ってくるらしい。T女史を急きょ駅で降ろして、自宅事務所に向かって書類を銀行へ届けてもらうこととする。
 有料老人ホームの外観はまだ新しく昼過ぎの太陽の光があたりまぶしくく輝いて見える。はやくも白内障なのかすべてがまぶしく輝いて見える。駐車場に車を停めるとまた電話が鳴る。この前面接したすぐ近くに住む人からだった。書類が届いたとのこと。駅で待ち合わせの約束をして、急いでホームに入り、すみません、20分くらいしてくるので待ってもらえますかと見学案内の営業の男性に伝える。やけに低姿勢で女性が4人も出てきていて心苦しかったが、また車を走らせて駅へ急いだ。20分たっても現れず、電話だけだと通じなかったかなと心配になったが、見た顔が目の前を通り過ぎた。ずーと現われなかったらどうしようと疑った私が悪かったと思いながら書類を確認して、気を付けてくださいといって、あわてて車をコインパーキングから出す。気を付けてくださいと言いたげなのは彼のほうだった。

 施設は今まで見た中では一番良かったと思った。しかし入るのは本人だからどうかはわからない。何をもっていいと言えるのかもはっきりとした指標は何もない。不自然ほど丁寧なあいさつも若い営業マンでもなく、施設長の女性の笑顔がよかったためか。採光のある施設のつくりのせいか、24時間看護体制のせいかわからないが、なんとなくいいなと感じた。

 3時にまた施設で待ち合わせの約束があり次に急ぐ。そのあと、テレビの工事の立ち会いに急いだ。門をはいろうとすると電気屋さんが出てきた。間に合ったようだった。
 
 何事もない方がうれしいが、かといって何もないのもつまらない。しかし、今日気づいた。認知症のある一人暮らしの人のところに長時間ヘルパーが入ると、その人が元気になる。短時間の細切れよりも、2時間3時間入った方が、一緒に食事したり、お風呂に入ったり、外出したり少しずつ生活に幅が出てきている。本人も落ち着いていて表情も明るくなってきてるような気がする。やはり1対1の密度のある対応が望ましい。

 今日も大変なお仕事ですねと言われるが、そうですねともそうでもないですとも応えられず、このような仕事をしている人に対して言う社交辞令のようなものなのかもしれないがその都度なんて言ったらいいかわからず、子どものように黙ってしまう。うまく応えられるようにあなれば、本当にこの仕事も板に付くというものだ。

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教育とは

 家族そろってノロウィルスにやられたようで、日曜日には息吹12時間後には明りそして旦那わたくしは、昨日の夜から具合悪く今朝は熱がある。
 明け方には汗が出て熱も下がったので息吹と明りの塾の個人面談に行く。これが二人の勉強の記録ですとドリルを見、どうですかと聞かれる。何か感想なり意見を言わなければいけないと思ったが、何も思い浮かばず、私が小学生の時も分数や比の計算難しかったですと自分のことを話してしまう。こどもの学力をどう伸ばしたいとか何も考えが思い浮かばない。普通の親は何かこういう時どう反応するのだろうか。

 事務所に行き、ケアプラン関係記録を行う。主任ケアマネ研修で事例を出さなければならないので、今までの記録の体裁を取り繕う。仲間のケアマネに前回の研修のことを訊ねる。事例検討は、全然参考にならなかったとのこと。うーんそうなるとどの事例を取り上げたがいいか考え認知症の方の事例にする。記録しながらフラット型のおむつを持っていくと言っていて持って行っていなかったことに気づいて押し入れからおむつを取り出す。施設ではおむつをしない方向。自宅で介護者が一人でおむつをする方向。

 自宅に帰り息吹がうれしそうに友達の私立中学の合格したことを話してくれる。他人のことなのに本当に友達が好きなのか、不安を打ち消してほしいのかどっちかわからない。社会はできるだけいろんな人が居る方がいい。教育を受ける間もいろんな同級生と接する機会をもったがいい。だから私立はだめと息吹に言っている。がしかし本当にそうなのかよくわからない。どのような環境でも何が大切なのかは考えることはできるからだ。子どもを育てることもよくわからない。一緒に育つと言われれば気が楽だ。
 明りが持ってきてくれるクラスだよりも見る。毎週毎週丁寧な写真入りクラスだより。「もっとこういうところがなおせるといいな。」ということを考えてみましたと書いてある。教育もケアプランも小さい小さいことの積み重ねがどこかにたどり着くようだ。
 何事も面倒くさがりやでせっかちな私には向いていない。

 

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成果よーん

 確定申告書昨晩夜なべしてほぼ終わる。あと一か所源泉徴収票もらって、寄付金控除いれればできあがりだ。売上高がいったいいくらになるのか知りたくて、後見報酬や給与や報酬を積み上げていった。独立して3年目最高売り上げ最高収益達成だ。やっと所得税を払って税収不足に貢献できる。退職時の年収を大きく上回る売り上げだ。それで、通帳の残高が少ないのはなぜかと考えたが、生活費や無駄なものを買っていたのだろう。これくらい収入があれば男子が家族を養うのも問題ないだろう。自分で自分の仕事を評価するのはできないから、こうやって数字で表すとなんだか嬉しくなって、税務署にお金を払いたくなる。しかし、市町村民税は忘れたころにやってくるから、そのときは払いたくなくなるのだから不思議なものだ。事務所の所在地の市税と住所地の市税と二つも払うのだから、なんだか偉くなった気がする。
 この記事を読むひとはごくわずかだけれど、これを見て私も独立したいと思って、独立人口が増えて、もっと自由に相談援助をする人が増えたら、まだまだ閉鎖的で保守的な業界に風穴が開くかもしれない。

 雪が降って動けないついでに、ぱあとなあの報告書作成する。様式が変わったせいで、全部作りかえる。私は字が下手なので、様式を自分で表計算ソフトで手作りしている。すると、様式の手抜きが発見された。赤字でコメントして、支部へ郵送する。リスク管理したいなら、もう少し気を締めて報告書様式を作ってほしいものだ。
 
 ブログやホームページの作者を実際に見ると違う人のように見える場合が多い。私のブログもそのたちだろう。

 私の成果をひっさげて税務署の門をたたく。そして次の階段に足をかける。
 雪はもう溶けかかっている。

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謙虚と感謝

 息吹にチョキンと切られた猫のリリーの髭もやっとそれらしく伸びてきた。ベランダのサッシを開けるとぴょんと飛び出してリリーは日光浴をしている。

 審判が重ならないように申し立てを2カ月ずらしてもらったにもかかわらず、今月2件審判が重なった。最近はなんでも効率化省略化の方向だが、すべて省いたのだろう。申し立てから5日目に審判がおりていて、びっくりする。すぐさま地域包括から電話があり、「引き継ぎを!」もっとゆっくり行きましょうよと言ったが、確定して登記までまだ間があることは承知で今から関係者と日程調整しておきたいとのこと。みんな不安定なのがいやなのだろう。
人の振り見てわがふり直せで、留守番電話に入っていたことはわかっていた相手に普通ならすぐにかけなおすのだが、不安を抱える練習練習と自分に言い聞かせて、1時間置く。3時間置く。

 インタビューをする方がメインだが、インタビューを受ける。わざわざ遠方からライターさんが私の事務所に来てくれた。「どうして独立して後見活動をしようと思ったのですか?」仕事の片手間にはできないと思ったからと応える。そんなこと全然考えていなかったが、とっさに出た言葉はうそではないだろう。在宅を支えたかったから。本人の意思に反して施設に入る人を見てきたから、後見人として本人の意思に添ってできるだけ自宅での暮らしを支えたいと思ったから。その気持ちに反して受任ケースは施設や病院入院の方が中心だったが、現在は半数が在宅だ。
 人から話を聞かれるというのは気持ちよく楽しい。まして、一人でやっていると話したいことがやまのように積もっているからとめどもなく口から出てしまう。
 誰かを支える仕事のつもりでも、私も誰かに同じだけ支えられている。謙虚と感謝独立の合言葉。

 

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不健康社会

 飯能駅で乗り換えると、いつもはガラガラの車内がリュックを背負った年配者でいっぱいだった。ゆっくり座って本の続きを読もうと思っていたので、高齢者ばかりのどよんとした空気に嫌悪を感じる。駅に着くと人々がどっと降り、スピーカーを持った鉄道会社の人が、「こちらでスタンプを・・・」と案内している。ハイキングの企画のようだった。グループ連れよりも女性も男性も個人が多く、中に夫婦や子どもが30代くらいの親子もちらほらと混ざっている。合同ハイキングならぬおひとりさまハイキング、ハイキングになじみがある世代なのだろう。でも顔色が悪いのはなぜだろう。顔色と言うよりも表情がさえない。
 ハイキングの連中に追い越されながら、ゆっくり斜面を登ると、やまばとを少し小さくした鳥が2羽ススキの生えた空き地の木に止まっていた。

 カーラジオから予算委員会か何かの中継が流れていた。義父はいつもNHKだから軽自動車に乗るとこれが流れてくる。総理大臣に質問して応える。市役所にいた人がせっかく役所で偉くなって自分の思う通りにできると思ったら、議会の答弁でさんざん苦労した。けれど何の結果でなかった。徒労だった徒労だったと言ってたことを思い出す。人に倫理を追求する時、何がうれしくてその人を追求するのだろう。お金に走っていた時代、高度成長からバブルまでお金が儲かるのはよいことだったはずなのに、今はお金を持っているとつまりお金を持っている政治家は、おかしいおかしいと追求される。みんなお金を持っていないからおかしいおかしいと追求するのだろうか?人のお金の使い道にどうしておかしいおかしいと追求するのだろうと思った。私はちっともおかしいと思わない。そんな人のお金のことよりも、もっと介護保険をどうしようとか、これからの教育はどうしようとか考えて追求すればいいのにと思う。憎たらしいからといってよってたかっていじめるのはよくない。
 高学年の息吹の学年も女の子同士のいさかいがあっていじめのようなものもある。懇談会で先生から保護者の皆さんからなにもありませんかと言われて何もでないので、私が息吹から聞いた仲間はずれのようなことを言った。先生も言った。でも保護者からは何もでない。いじめはだめだ。小学生の学級委員のままの私の幼い正義感が顔をもたげてくる。みんな受験だなんだで人ごとなのだろうか。

 予算委員会もなんでもみんなみんな人のことより自分のことが優先している。人のためと言ってやってることほど自分に迷惑がかからないためにやっている。窓から差し込む日の光を背に受けて病室のベッドのわきのいすに足を組んで静かに座っている人たちのほうがずっと健康的だ。

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自転車も経費に!

 バス停で停留所の案内を見ていたら、この先に東京入国管理局という停留所があった。ビル風だか、海風だかわからない風がびゅうびゅう吹いている。このあたりには、民家なんかないだろうなと思いながら高層マンションを見上げた。バスを待つ乗客の男性と女性が何度も停留所から車道に出て、バスが来る方向を確認していた。停留所の手前に止まったトラックのせいで両側3車線の広い道路にもかかわらず、道が見通せないからのようだ。広々とした埋立地を通る風が焦りや不安を吹き飛ばしてくれているようなのに焦ることないだろうと思った。焦って車道に出ても、バスが早く来るわけではないのに。
 品川駅のコンコースに垂れ幕がかかっている。行き交う人同士、譲り合いましょう。ラッシュ時はよっぽど混むのだろう。ちょうど昼食時の通路は、たくさんのスーツ姿の男性女性が歩いていた。見上げると、天井がドーム状になって、プラスティック張りで太陽の光がコンコースの床に降りそそいでいる。ホームから見るビル街はすべて高層ビルだ。江戸時代の人が今この品川に降り立ったら、「大きな城ばかりじゃのう」とかいうのかなと思う。
 こんなにビルばっかりでもちゃんと特養やデイなどの施設があるところが、不思議だ。目の前にいる人は、確かに話し方も、風貌も、大正の人だが、窓から見える風景は平成の未来都市だ。私が小学生の時に書いた未来の絵の通りに、高層ビルとビルの間をぬう高速道路とモノレール。島に住んでいた私は、砂利道が全部アスファルトになって、虫が一匹もいない世界になったらどんなにいいだろうと思っていた。もし、今、昭和40年代に戻れたら教えてあげよう。虫のいない世界は人も滅びるよって。

 先週末自転車を買った。ステンレス製でテントウムシが付いている。思いのほかすいすい進んでついスピードが出てしまい、車道を走る。自転車がいいとスピードがこうもでるのかと感心する。自転車のおじさんとはなじみで、子ども用いすも登録料も保険もサービスしてくれ、メンテナンスも無料だ。これが量販店だとこうはいかない。毎日店の前を通るたびに挨拶をしていた甲斐がある。商店街を通るなら、店の人に挨拶するのもサービスをしてもらうきっかけになる。シャッター通りの細々と営業している店をみてると独立型のケアマネを思い出す。

 そろそろ確定申告のために、事務所の決算をしなければならない時期だ。今年は今までで一番の事業収入となる。いったいいくらになるのか楽しみだ。そのためには、ちゃんと経費もたくさん使っている。国の所得税は何兆円の歳入減だが、私が払う所得税は国の歳入に寄与できるだろうか。自分で稼いだまっとうなお金お祝い袋に入れて、現金で税務署に持っていきたい気分。

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自己決定を懐疑せよ

 いろいろおもしろいこともあった1週間だったが、何せ苦手な第3者評価のレポートが遅々として進まず今日となる。なんとか作文技術を上げようと「日本語の作文技術」本多勝一を手に取るが、作文技術の文章自体が難解で、もういちど小学生になりたい気分になる。
 先週産婦人科に久しぶりに行った。内装が変わりすっかりきれいになった待合室のソファーに座ろうとすると女性より男性のほうが多い。妊婦さんより旦那さんのほうが多いとはこれ如何に?妊婦さんは検診にや尿検査に行ってる様子で、すぐにぞくぞくと旦那さんのところに戻ってきている。中にはぽいっとカーディガンを放り投げてそれを旦那さんが丁寧にたたんでいる光景が目に入った。女性上位社会。検診に来て男が内診に立ち会い、おなかの中の赤ちゃんの写真でも見ようというのだろう。この勢いで出産にも立ち会うのだろう。
 出産の時の様子を思い出す。陣痛があるときはっきりいって旦那がいようがいまいがこちらは必死だからどうでもいい感じだ。しかしきっと愛ある夫婦は愛のおかげで出産が楽になるのだろう。
 そんなことより、受付に行くと産科ですか?婦人科ですか?と聞かれる。ちょっとうれしい。検査の結果、がんでも何でもなく、ホルモンのバランスが悪いと言われ、女性ホルモンを処方された。私より少し若い女医さんは「ホルモンのバランスが悪いのでホルモン剤を出します。」とインフォームドコンセントとは程遠いいきなりの治療方針。「ホルモンとは女性ホルモンですか?」問うと私が詳しく聞きたいのだと察して、ぺらぺらと説明しだした。
 じーと自分の顔を鏡で見て、瓶の蓋があかないなど握力の低下も実感して、目に見え、動きが実感できる体の外側の老化はしっかり感じていた。それがついに体の内側もしっかりガタが来ていた。受付でカルテを受け取るとき、「お大事に」と言われてなんだかうれしくなる。患者になれてうれしいなど感じるとは不謹慎だろうなと思いながらもうれしいという気持ちに偽りがない。私の中にはきっと不健康な精神が宿ってるのだろう。

 主任ケアマネ3日目、評価レポートも終わり、読書しながら講義を聞く。「弱くある自由へ」立岩真也 安楽死についての文章「『あなたが作ったものだけがあなたのものである」つまり「あなたは自分のことをじぶんでしなくてはならない』という規則があり『あなたが何かができる、その何かがあなたの価値である』という価値がある。しかし、これらには、そういうことでやってくれた方が周囲に迷惑がかからず、また生産につながり、都合がよいという以外の根拠は見つからず、他方でそれはすくなからぬ人の生を破壊する。つまり先に自己決定を阻害し、同時に簡単に許容してしまうことの背後にあると述べた『都合のよさ』によってしか支持を得られない規則・価値を輪足たちは、正義とし、それ自体価値あるものとしてしまった。」
 障害者の自立生活のための制度を充実させないということは、自己決定を尊重していないということに他ならない。それなのに、安楽死は認めるということになれば、それは周りの社会にとって都合のよい自己決定だと言っている。
 「・・自己決定できる人、自己決定する人が、人間なのか、よい人間なのかという問いかけがある。あらには、自己決定能力が人間であることの要件なのか。資格なのかという問い、・・」

 できることに価値がある世の中では、利用者本位の名のもとに、自ら進んでサービスを利用したいと言わないからとそれに甘んじて何もしないのは、おかしい。もっと自己決定とは何か本当の自己決定は何か限度額で給付制限を行っているわけだから、限度額の範囲であれば、無駄だと思えることでさえ、本当の自己決定に従ってサービスの利用を進めるべきだ。
 
 

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板に付く

 さいたまの家庭裁判所の朝は冷えている。東京は本庁も立川もすっかりただのオフィスビルだが、さいたまはまだまだ外観は重厚で文鎮みたいに重たくて冷たい。家事審判の受付には朝9時前から何人かの一般の人が手続きに来ていて、「相続がどうの」と話している。スーツ姿の男性があわただしくエレベーターに乗り込んできた。家庭裁判所以外の人たちだ。
 
 すっかり後見の申し立てにはおなじみの参与員さんが、「ほー9件ですかそれではすっかりベテランですね。」と言った後に、「なんでもわからないことや気になることがあったら家庭裁判所へ事件番号を伝えて聞いてください。」と3回も繰り返す。
 参与員さんが月収350万ですか?と聞く。「は!」睡眠不足のせいか昨日書いた候補者事情説明書に月収350万と書いている。笑ってごまかしながら、訂正線を引いて判子を押す。
 帰りがけ地域包括の女性を包括まで送る。車の中で、地域包括はこうあるべきとか、ケアマネはこうあるべきと話しながら、「ここのソバ屋はおいしいですよ。」と話す。また候補者が見つからないですねなど話しながら「朝霞の駅前のソバ屋もおいしいとですよ。」とか「朝霞台の駅前の中華料理屋さん言ったことありますか?」などまったく関係のない話を交互に繰り返してるうちに地域包括につく。
 女性同士の会話らしいとんでもそれても何事もなかったかのように「虐待は・・。」「地区会の研修は・・・」と話が続いた。ついつい利用者さんのことについても話してしまう。プライバシーに触れないかいや地域包括だからいいかなど自問自答しながら、日頃話し相手が少ないせいか口が勝手にしゃべっていた。
 その点男性はなんで口が重いのだろうと思った。あんまりしゃべらない男性のことを考える。男はおおむねハードボイルドらしい。ハードボイルドだから、ストレスがたまるのかななど考える。

 その後1件訪問、いつもの中華料理屋さんでランチ後、1件訪問、事業所訪問、1件訪問して介護サービスの医療費控除の相談を受ける。もうその時期ちゃんね。80過ぎて、自宅しか歩けなくても、一生懸命に医療費のレシートをつづって計算してしっかり生活しているお宅に感動して、ついでに相談料をもらって自宅に帰る。すっかり独立もいたについてきたようだ。

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遠くではがれきの下敷きになている人がいるというのに

 駅のホームの雰囲気が前とずいぶんと違って軽く明るい。前とはいつくらい前のことだったかちらほら考えているとすぐ当直駅に着いた。思い起こせばもう20年前こうやって学校へ通い、福祉業界への道を進むことになる。武蔵野線→京浜東北線→東北線→東武線と乗り継いで社会事業学校へかよっていた。あの時は浦和駅だけでなく東北線のどの駅のホームも階段も壁も黒ずんでいたのに、今は改装し、扉が閉まるベルの代わりの音楽もやけに軽い。あの時なぜフラワーコーディネーターの資格を選ばずに社会福祉士を選んだのか定かではない。

 与野駅をおりて中山道に出るとやけにすっきりと広々とし、大宮方面にやけに近代的なビルがいくつも連なっている。ソニックシティーだけがぽつんと伸びていたあの時とは大きく変わっている。そうして違う次元に来てしまった人類のように、別人のような暮らしを送っている。

 今日は主任ケアマネ研修1日目。講師も飽きないように一生懸命工夫を凝らして、説明している。今年の埼玉でケアマネに合格した人が1600人、今年主任ケアマネを受ける人が約400人いずれ4人に一人が主任ケアマネになり、いつかは全員が主任ケアマネになれる。なんせ5年以上の実務経験があればよいのだから。

 シルバー産業新聞を読む。発足当初、判子もらいのモニタリングも記録もなにもなかった支援経過の作成も今どきはみんな基準通りに行い、しかもそれが確かなケアマネジメントのプロセスと信じて疑いない。運営基準通りの記録や会議はマネジメントの最低基準だと言いきれるところもたいしたものだ。それで加算があるので報酬に対しては、今のところ満足のようだ。
 
 ケアマネジメントが必要ない要介護高齢者がいることを誰も何も言わないのはなぜだろう。介護保険のケアマネジメントでは、コスト管理はできていないとだれも言わないのはなぜだろう。講師が言った。「もっと自分たちの仕事の成果を主張すべき。自立した例やコスト削減した例はあるはずだ。」その例が少ないから誰も言わないのだ。
 
 日本航空は、安全とコスト削減のはざまで揺れている。よい介護とコスト削減は矛盾する。本当の自立はお金がかかる。

 コスト削減のためには役に立っていないケアマネジメントだけれど、誰かのお世話をしたいというケアマネの役には立っている。

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ケアベア

 みんな着ぶくれて通勤の満員電車がさらにぎゅうぎゅう詰めになっている。私はもう痴漢なんかに会うこともないだろうなとか私のことをみんな背が高いおばさんだと思ってるのかなとか変なことを考えていると池袋の駅に着いた。
 今日は評価のため施設へ訪問に行く。朝から夕方まで一生懸命、職員が施設案内や、質問に丁寧に答えてくれる。本当に利用者さんのことを一番に考えている様子が伝わってきて、人材不足の中で頑張っていることに関心させられる。私は性善説だからなんでも言われたらそうなのかと素直に思う。どちらにしても、一般的に3Kと言われる仕事に従事していることは尊い。
 施設には在宅復帰の役割も理念上は求められていて、復帰したら微々たる加算もつく。しかし入るとき家族には100パーセント在宅復帰意向は念頭にない。
 戦前配給制だった時のことを義母からよく聞いていた。まじめな歯医者一家が、国の言う通り配給だけで暮らそうとしたらしい。庶民一般は、闇で食料を調達していたらしいが、その一家は違った。そしてその歯医者さんは、家族に配給物を食べさせて、自分は餓死したとのことだ。
 仮に、施設に入った要介護5の人が自宅で介護保険の区分支給限度額内だけのサービスで生活をしてみたら、どうなるだろう。それで死んでもしょうがないということなのだろうか。あるいは脱水→入院を繰り返すことになるのだろうか。
 そんな人が地域包括にみつかったら、病院や施設にいれられてしまうのだろうか。
自宅で暮らしたいといって、劣悪な環境にもかかわらず、施設に入らない人たちもたくさんいる。しかし、役所や家族や周りは、そういう人を放っておいたと後ろ指をさされるから、なんとかしてしまう。しかし本人の意思は在宅だ。安全よりも自由だ。
 
 そういうことがわかているからこそ、施設の職員は、やさしくなれる。帰ってくると明りがケアベアのクッションを並べて、寝る準備をしていた。ケアベアちゃんたちは、それぞれのマークに応じた使命を持っている。ブルーのケアベアは明りを安心して寝かせる役割を持っている。ピンクとブルーのケアベアを見てると今日説明してくれた施設の職員に見えてきた。

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薄いぜんざい

 朝一番でガスコンロの取り付け工事に立ち会う。ガス屋さんが本当に本人に了解は得てるのかと心配そうに尋ねる。「大丈夫大丈夫。いいって言ったから。」いいと言ったのは確か2カ月くらい前の話しにもかかわらず、すっかり本人の代わりになったつもりで、勝手知ったる他人の家にあがると主は朝ごはんを食べている。
 何度も何度も「何しに来たの?」と尋ねられその度にガスコンロに火がつかないからと繰り返し説明する。思ったより工事は長引き、明りに「すぐ帰るから」と言った割には、もう1時間以上もソファーに座って、一緒にNHKを見ていた。蜷川幸雄による無名の若者への演出指導の番組だった。こうやって若者から、才能を技術をひっぱりだすのかと感心させられた。なんだか、ソーシャルワーカーにも似てるなと思い、なんだか同じことを誰かが言っていたきもする気がしたが、はっきりとは思い出せない。
 あるじと「へー」「役者もたいへんだな」などいいながら、いつの間にか意気投合していた。いつもは、すぐ「もういいよ。(帰って)」と言われるところだが、今日は2時間も居座っている。あたりまえだけど、理由があれば、家にいても拒否はされないんだと思った。
 無駄だと思いながら「にあいますけど髭切ったら。いつ切るんですか?」と戦国武将のようなひげを見つめる。
 2008年のカレンダーを2010年のヘルパー事業所のカレンダーに付け替えて、帰ってきた。

 久しぶりにぜんざいを煮て、家族に隠れて、餅のカビを包丁でこそぎ落として焼いた。カビが生えていた餅とも知らないで食べてる家族と知っていて食べてる私。
 ガスコンロは奥さんが私に頼んだと思っている髭のあるじと奥さんから頼まれたわけではないことを知っている私。
 ぜんざいの食べすぎで胸焼けしてしまった。

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特殊性

 紫のセーターに紫のプラスティックの石がいくつもついたネックレスをして鏡を見る。すっかり中年の格好が板についてきたようだ。今年の誕生日がくると40代も中盤にさしかかっている。社協をやめて3年、早い。
 ドラえもんがもっている、時間を短くしたり、長くする時計があったなら、時間を長くする時計がほしい。時間さえあれば、子どものためにいろんなことができる、仕事をまとめることもできる、そして学ぶこともできる。
 「命短し恋せよ乙女」     
時間の概念があるから時間に縛られる。時間があっても空を飛べるわけでもなし、違う次元に行くことができるわけでもない。
 
 補講の受講生と話していてふと思った。地域福祉が大切というけれど、どうして私はここまで、それが大切だと思えるのだろう。「共に生きる社会づくり」教科書に書いてあることをなんども唱えると自然に洗脳されていくからだろうか。
 受講生が言った。このことを福祉を学んでいる人だけでなく普通の人も知れば、理想の社会に近づくのではないかと。
 正月に旦那の会社の人が来て私は料理などをだしていた。旦那がトイレに立った時、何か話題を提供しなければと、福祉の現場には今他業種からの転職組とくに男性が多いっといったことを話した。結果としてこの仕事にやりがいを感じればそれはいいことではないかと話すと、会社の人はそれでも他によい仕事がでてくればそこに移るのではないか、介護は底辺の仕事にあたると言ったのち会話が途切れた。
 
 みんなが幸せになる社会の実現を考えることは特殊なことなのなのだろうか。
 

                                             

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つながりというよりも

 駅からまっすぐ伸びる道路を西に向かうと正面に宙に浮いたように山が見える。東京に来て何がいちばんいいかってそれは富士山が見えることだ。天気の良い冬場にかろうじて秩父の山々が見える東京では、山が恋しくて、車を運転しているとついつい山のほうばかりみてしまう。富士山は、小さいころから見慣れた山とはずいぶん違う形と高さだ。いつも幻かと疑ってしまうほどかっこいい。

 午前は通院介助、情報公表のためだけの資料作りの後、施設へ向かう。病気や認知症になってしまうと今までの人間関係は機薄になるのが常にもかかわらず、彼女のところに欠かさず来てくれる人がいる。彼女との絆というよりも、つながりというよりも、彼女の存在が、その知人をある特殊な技能をもった人間としてあらしめている。

 人と人とのつながりはおもしろい。

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福祉は福祉として足り得ているのか

 始業式を明日控えた午後8時明りが、宿題を一つ忘れたと急いで、読書感想絵を描きだした。本を読んでいないのにどうやって書くの?と聞くと「それもそうですね」と言って、本の挿絵をパラパラとめくっている。差し迫ってから宿題をしているのは息吹も同じだが、明りにはさほど怒りがわかないのは、長女と次女との違いだろう。かわいそうな息吹は私の怒りを一身に受けて、反発しながらもなんとかやっている。

 明りは学童がいやだいやだと1日10回は私に訴えたり、いかにいやな思いをしているか、なんとか学童をやめさせてもらえるように懇願する。「家でぐちぐちいって、爆発させているのをいやな2,3年やいじわるするお友達に爆発させり!」となんの解決策にもならない方法を私もうんざりしていうと、「そんなことしたら、先生に追放されるよ。」と明りは冷静に言う。
 明りも息吹も友達関係や学校のことでそれなりに一生懸命やっている。旦那は旦那で一生懸命経済活動に励んでいる。義父も一生懸命に家族のことを考えて、洗濯物を取り入れたり孫の面倒をみたりしている。
 そんな家族がいつかはいなくなって一人暮らしをすることを想像する。こんなに賑やかでうるさい家族だけどいなくなったらどんなにさみしいのか想像する。

 仕事は4日から有料老人ホームの見学に行き、入所の相談をするが、精神科に受診している人は入れませんと断られる。遠回しに言ってくるので、「精神科に受診している人はだめということですね。」と念を押す。そんあ入所基準聞いたこともないし、そんな基準はない。うたい文句にも、そんなこと書いていない。たいそうなあの有料ロージンホーム協会の倫理綱領はただのお題目ですかと思った。年末29日には、特養から入所御断りの手紙が来たばかりで、あの人もこの人も施設からお断りされている。介護保険料を支払っていて認定もでていてどうして介護サービスの恩恵にあずかることができないのだろう。恩恵ではなく、権利のはずだ。要支援1でも手間がかかるからと有料から断られ、要介護5でも手間がかかるからと特養から断られ、本当に介護を必要としている人は、こうやってサービスの谷間に落ちていく。制度は欺瞞で満ちている。身体拘束ゼロという美名の陰に、サービスが必要な人がはじき出されていく。多数派のニーズを充足するために少数派のニーズが犠牲になっている。本当に必要な人が優先してサービスを使えるようになることは、保険制度では難しい。
 
 最近雲ひとつなく夕日が一人で朱色に光っている日が多かった。けれど今日は風があり、空には、ちぎれた雲が大きく張り出していた。雲は夕日を受けて、赤と紫に染まっていた。夕日だけでは、その本当の美しさは十分に発揮されない。それに照らされる対象物があるときに限りその美しさが際立つ。

 おししいところだけの福祉なんて福祉じゃない。どたばたして振り回されて手がかかってあたふたしてそういう人が地域にいて一緒に暮らすことで私たちは輝くことができる。

 

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いったりきたり

 すがすがしい空はいつもの冬の空より青く空気が澄んでいる。お向かいの家に来ていたおじいちゃんたちも帰り、いつにもまして家の前の路地は静まり返っている。空の遠くからゴーというジェット機の音が聞こえてきて、それが静まるとカラスだけがカーカーと鳴いている。
 久しぶりにした窓掃除、換気扇フィルター掃除をしているとずっと前からこうして家の中のことをしてきたような気がした。お節料理の買い出しのために八百屋やスーパーに日に何度も行き来してると、ずっとこの世界に澄んでいて、このままずっとくりきんとんや田作りを作ったりだけする生活をしていくような気がしてきた。
 それでも、大みそか、郵便物が届いていないか心配で事務所にいくと、事業所から実地指導のため、早急なケアプラン送付の依頼が来ており、急いで作成して届けた。大みそかの道は人通りも少なく、近所の看護研修センターも休みに入っていることがうかがえた。世の中いつもと違うモードに突入していていた。
 何もすることができないけれど、元気を出してほしいなと思った。そう思って、手のひらの花びらをふっと吹くと小さな薄いピンクの花弁はふわっと舞い上がり、空に上って行った。私の願いは花びらにのってあの町に飛んでいくだろう。
 近づきたいのに近付けない 磁石のような関係は どこまでも続く 1年の始まり

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なんだかわからない

 年末になるとどうしても年齢だとか開業何年目だとか自分の歴史を時間に換算してみたくなる。平成19年に独立して3年、福祉業界に入って19年、関東地方にでてきて、22年。と言うふうにみると、人生の半分を関東で過ごしたことになる。
 
 地方出身者はこうやって東京に住みついて、帰ろう帰ろうと思っていても、結婚して子供が生まれて大きくなるころには、Uターンをあきらめて、故郷がいつの間にか東京になっていくのだろう。

 今日も有料老人ホームに見学の予約をする。
いつから自分の老後のために、住み代えたり、施設に入ったり、準備をするようになったのだろう。人に迷惑をかけたくないとか、最後まで自分らしく生きたいとか、そのとき困らないように今からおぜん立ておきたいとか先のことを考えてる人が増えている。
 先のことより今どうしたいということはないのだろうか。先のことが安心安全な生活が幸せな生活なのだろうか?

 自分が寝たきりになって自宅で発見される。救急車で病院へ連れて行かれる。治療を受けて、特養か病院へはいる。あるいは自宅で娘に介護される。のどれかだ。自宅で発見されてほうっておいて貰えないのはなぜだろう。医療保険があるからだ。周りが助けたいとおもうからだ。そのままにしていてほしいという自己決定は、尊重されるべきなのか、自己決定より尊重されることがあるから助けるべきなのか?自己決定は、もともとあるものではなく、社会が成熟してでてきたものだからなかなか尊重されないのか?
 自分の意思ははっきりあるのにもかかわらず、意思を主張できる範囲は、社会に生きてる以上制限があるものなのかなんだかわからない。

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じゅうたん

 すっかり葉も落ちた木々の間から、ゆっくりと手と足を動かしている人が見える。あんなにゆっくり手と足を同時にばらばらに動かせるなんて、きっと余計なことを考えていたらできないだろうと思った。よく見ると一人だけでなく何人もあちらこちらで体を動かしている。年末の芝生も枯れた公園で、太極拳やラグビーの練習をする人たちがいる。
 こちらは、時間に間に合うかと急ぐ不思議の国の時計をぶら下げたうさぎだというのに、うらやましい限りだ。
 今日は、利用者さんと一緒に有料老人ホームの見学にいくために、国道を飛ばしている。

 パンフレットどおり広々としたロビーにはピアノが置かれ、凝ったデザインのソファーに案内される。一通り説明を受け、聞きたいことを聞き、モデルルーム、食堂、リハビり室、お風呂へと案内される。入浴、食事時間の選択など質問していると、第3者評価の質問と同じようなことを聞いていることに気づく。ホテル並みの接遇、調度品、レストランでの食事など特養とは比較にならない。夜も看護師がいて、夜間巡回の見守りも受けられる。一時金も手の届く範囲だ。
 昼食の試食のためにレストランへ向かうと昼食帰りの一段とすれ違う。品の良い女性同士和やかに話しながらエレベーターに乗り込んでいった。グループになっているようだ。中学高校の時一緒にトイレに行っていた女子同士のグループを思い出した。
 
 ホテルのような居室、24時間安心の生活、お金だせば通院介助でも買い物でも頼める。だけど何かが違う。マンションの一室でも有料老人ホームの一室でも同じことだけど何か違う。絨毯張りの廊下で騒音がないのだ。生活音がない。そしてグループに仲間入りしなければならない。

 絨毯の毛の深さは、音や、埃だけでなく、さみしさや、楽しさも吸い込むほど深い。ふかふかした毛にどんどん足が埋もれて、永遠にそこから抜け出すことができない迷路に迷い込んだようだった。
 

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家事代行

 ボールのパスを受け、ドリブルするとどんどんという音が体育館に響いている。スローモーションのようなゆっくりなドリブルも、周りが小学5年生の初めてバスケットをする女の子だから、だれも取りに来ない。そのままシュートをすると、小学生用に低めのリングにすとんと落ちる。いつのまにか私も小学生になって一緒にバスケットをしていた。
 子どもに花を持たせずに、自分が楽しんでしょうがないなと思いながら、楽しんでしまった。30分もすると汗びっしょりで、裸足の足もぽかぽかして、体も小学生に戻っていた。
 今日は子供会のレクのため、朝から買い出し、学校でクリスマスホットケーキ作りをする。買い物の間をぬうように、訪問介護事業所に、同居家族の家事援助の依頼をする。年末年始の有料ヘルパーの手配をする。
 すっかり自費が当たり前になって、ニチイも家事代行サービスをがんがん行っている。その人の必要性ニーズや背景など関係なくまったくの家事代行を引き受けている。これを自立支援の目的の介護保険ヘルパーが担うのだから、矛盾を感じないのかなと他人ごとながら心配になった。いくら予防といって、サービス利用を限度額で制限しても、ケアマネが予防のためのプランを作成しても、いくらでも本人が頼めばお金をだせばサービスを受けられるわけだから、予防プランの意味がなくなり、プランも結局は、家事代行に近くなる。本人が自立できるような支援をヘルパーに期待することはどんどんできなくなっていている。
 
 長年制限のないサービスを標榜していた、住民参加の在宅サービスを行ってきたので、消費者としての本人の希望通りのサービスをしたい立場だ。その私が、それはちょっと行きすぎではないかなと思う大手の家事代行サービス。まったくの家政婦さんと同じではないか。結局もうかればいいということをはっきりと表明していることにつながる。

 介護保険による自立支援の未来は暗い。
 
 

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ワーカーとクライアントンの関係

 ソーシャルワークは、クライアントとワーカーの関係を使って、クライアントの力を引き出す技法だ。
 今まで、関係づくりといっても、どうしても組織の役割と時間との制約があって、十分にできていたかというとそうでもない。後で考えてああしてみればよかったと中途半端さが残っていた。しかし今は、自由にできる。その分リスクも大きい。関係を作ってみたり、関係を壊してみたりすることで本当に、その人の力がアップするのか、その人が解決できる力がでてくるのかやってみないとわからない。

 昨日もその前も空には雲がなかった。今朝西の空遠くに雲が見えたが、午後にはすっかり雲は消え、西の空は、夕日を反射する雲はなく、空そのものが赤紫に染まっていた。王子様もこの夕日と空を見ていないかなと思った。空想の世界で私と王子様は結ばれている。実際は自分ではこのことは空想とはちっとも思っておらず、真実だと確信している。

 この確信が自分の体に向けられていたらどうだろう。心臓がドキドキする、息切れがする、そしてそれがどんどん悪くなることを想像していると、本当にそうなってくる。体の不調は、体が何かを訴えている。なぜやさしくしてもらえないのか、なぜ阻害されるのか、自分が望んでいたようになぜならないのか体が訴えている。本当の気持ちを自分自身がわかれば、体も安心して安定するのだろう。

 かわいそうな王子様。今日も星がきらめいている。王子様の涙のようだ。

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当たり前にやっていることのうそ

 社会保険労務士が後見人として選任された事例を聞いた。なんでも未支給年金を発見して総額1千万になるとのことだ。年金額が少ない方を受任しても、私の場合、今まで後見人届をして、社会保険庁から年金の確認と未支給らしい分の確認がくれば、それを手続きするということは行うが、自ら申し出て未支給があるのではと言うことはない。たぶん一般の社会福祉士はそうではないか(違う社会福祉士もいるだおるが)。これは、これから社会保険労務士が第3者後見人として認知されてくる可能性があることを示している。

 地域で後見の相談を受けて、申し立て支援をすることは、地域の福祉力のアップにつながる。潜在的に権利擁護のニーズを制度利用に結び付けて、後見人を発掘して、やりがいを感じる。なぜなら地域福祉が私の使命だからだ。このように地域で独立型社会福祉士が相談を受けるということは、単に制度利用だけでなく、公的な相談機関との連携や補完とともに、地域の資源の発掘につながっている。これが、埼玉や東京といった広域的に後見人の相談や候補者紹介を行う場合とは大きく異なる。何がいいたいかといいうと、ぱあとなあの相談機能や候補者紹介は、最低限でよいということだ。
 後見人は紹介して終わりというものではない。地域の関係機関と連携して後見活動は行われるものだし、後見人の活動を見守る、周囲のの目も行きとどく。このことは必然と後見人の質のチェックにもつながってくる。お金の勘定があってるかどうかは、監督に任せて、身上監護面ができてるのかどうかは、これはもう、周りの支援者である、地域の事業者、地域の施設が一番よくわかる。つまり、職能団体が、行う報告書のチェックでは自己申告であるので、意味をなさないということもいえる。
 今日も施設の人から言われる。「他にも後見人が付いている人がいるが一度も面会にこない。」法律家の行う後見活動の違いも説明し、私が行った外出介助(一緒に買い物や食事に行くなど)は基本的に後見人の権限外で間違うと利益相反になることも説明するが、面会に来る人と来ない人とでは、被後見人さんにとっては、前者が望ましいと普通だれもがそう思うだろう。
 しかし、私はぱあとなあの一律な月1訪問を課していることには反対だ。根拠がないからだ。まして、本人が望まないで後見人が選任されているとなお、なるべく本人の生活を侵さないように、後見人がいないかのうようにふるまって、本人の生活が今まで通り成り立つように支援するのがベストだと思う。関係性を作らないと後見ができないということは絶対ではない。本人が望むのは今まで通りの生活だ。いよいよそれが難しくなってきて、本人の意思を確認するときには、関係づくりは必要だが、問題なければそのままでいいと思う。また、施設で毎日接している職員と月1回程度あう後見人とではどちらがより本人の気持ちを推察できるかと考えたら普通は家族でもない後見人ではなく、職員のほうだろう。

 私も常識より非常識が好き。本当のことは、非常識のほうの場合が多い。

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スタートのために

 明りがあと何分たったらケーキが焼けるかと聞くので、20分というと20分は何秒かと聞くので1200秒と応えるとその次は?と聞く。その次?その次はないよと応えると、「わかるはずでしょ。ぼけ老人が!」と言い放った。こんな悪態をつく子の親をどいつだ!といいたくなった。

 朝から窓ふきに励んでいると、息吹の友達がきて友達同士でケーキ作りを始めた。知らんふりを決め込んで、聞かれたことに答えていたら、ちっとも生地が膨らまないと言って、3倍の量の材料を継ぎ足して、枠に入れて焼いていた、見た目はスポンジケーキのようだが、切ってみると消しゴムように固かった。息吹が低学年のころ、友達を呼んでよくケーキを焼いたりプリンを作ったりしていたことがついこの間のことなのに、セピア色で思い出される。あの頃は、自宅にいると少しも仕事のことなど思い出さずに、子どものことや家事に没頭できていた。しかし、今は常に仕事が頭を占領して、子どもと一緒に何かをすることが少なくなってきている。組織にいるときは、家に帰ると家でできる仕事もなく、暇なので家事や子どもの相手をしていた。よく昼寝もしていた。それが今では、少しの時間があれば、何かしら仕事をやっている。

 しかし、サッシの縁のパッキンについた黒い埃を歯ブラシでごしごししていると、無心になっていた。仕事のことなど忘れていたのだ。ごしごしと子ども部屋の窓が終わって、2回の玄関のまど、洗面所の窓までやっと終わったころには、自宅の中の窓のまだほんの一部なのに、気持ちがすっきりしてきた。こうやって新しい心でスタートしなおせればどんなにいいだろう。人は自分で自分を変えることもできる。季節があるおかげで1年がある。新しい気持ちでスタートするにちょうどいい節目もある。ありきたりな人間には、季節の途中で自分を変えることはなかなかできないから、正月という昔からの行事に合わせて、気持ちを入れ替えるのがちょうどいいのだ。

 

 

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自己決定

 あちらこちらの病院や施設からから新型インフルエンザの予防接種についての問い合わせが相次いできている。優先接種の順番の最後に65歳以上の高齢者があるためだ。病院に入院患者全員分とどいたという。はたして、入院患者の全員が65歳以上なのか、療養型や精神療養病棟は当然に65歳以上との概算で都や県が確保してきたのだろう。
 病院は、接種に対して同意の有無よりも、費用がかかることの了承を求めてくる。後見人としては、医療同意はできないので、費用について求められることは権限内であり一向にかまわない。それが特養だと、接種自体の同意を求めてくる。何度もやり取りしている施設は、本人に聞いて署名してもらいますねと落ち着く線で進んでいく。

 医療同意は一身専属事項だから後見人は同意できないし代理できない。これは後見人だけでなく、本人以外が決めることはできないことなのだ。しかし、本人が決めることができれば後見人はいらないところから話は始まっているからややこしい。予防接種程度のことならば、誰が責任とって決めても、そんなに問題にはならないと思うが、やはり終末期の呼吸器送管や心臓マッサージ、あるいは手術などの場合は、難しい。本人が予め決めておいたとしても、周りの想いで変わらざるを得ない場合もある。死に際に際しては誰だって自分のことを自分で決めることは難しい。
 
 それで今「弱くある自由へ」自己決定・介護・生死の技術 立岩信也著 を呼んでいる。

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成長、不思議

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自分の目で見た美しさをそのまま写真で写すのは至難のわざだ。だから写真家が必要なのだろう。自分が感じたことを伝えたいと思っても、それを完全に言葉で伝えるのも至難の業だ。だから詩人や小説家がいるのだろう。

 寝息を立て始めたの明りの頬に自分の頬をそっと近付けるとまだ赤ちゃんのにおいがした。息吹もついこの間まで、赤ちゃんのにおいがしていたのに、いつの間にか思春期のにおいになっている。赤ちゃんのにおいがしている間は、息吹のすべてが私の管理下にあったのに、今は大きくそこからでようとしている。誰と仲がいいのか、何が好きなのか、何を考えているのかすべてわかっていたような気がしていた。それが今は、依然と違う友達が家に遊びに来る。嵐以外の息吹の話していると言葉がわからない。私が勧める本なんか読まないだろうと思っていたのに、私の本をあっと言う間に読んでいる。息吹がなんだかわからない存在になってきた。ここ1年で違う子になっているみたいだ。これが成長、社会的な自我が目覚めるときなのだろう。
 子どもといくら一心同体だと思っていても、息吹には息吹の人格があることを痛いほど感じる。

 時々確信が持てるほどこの人はいまこういう気持ちだわかるときがある。大体よくわかる。わかるというのは、私自身が感じるだけでそこでどのようなことが起こっているのかを言葉で表せと言われても表すことは言葉が不足していてうまく表せないがわかる。
 しかし、気持ちがまったくわからない人がいる。しゃべっている言葉はわかるけれど、感覚としてつかみにくい人がいる。言葉だけを聞いていても気持ちが伴っていないことが多い。気持ちを隠しているかのようだ。つまり私としては共感しにくいというわけだ。自分の本当の気持ちをいえないことほどつらいものはないと思う。かといってなんでも言いすぎて人を傷つけるのも考えものだが、自分の気持ちを隠しすぎてもやっぱり人を傷つけることもある。人って不思議だ。

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言葉が人をつくる

 今日もまたまた講師業。質問を受けると楽しいので今日も質問コーナーを設ける。「なぜ、収入を下げてもまでも、今の仕事を選んだのか。生きがいは何か。」と聞かれる。「自由だから」とっさに応えたものが本当に思っていることなのだろう。口から出て初めて気づく自分。自分の小人がぽんぽん口から飛び出していく感じだ。「先生が、延命処置を受けざるをえない時、どうしたいか?」「ほっておいてほしい。」「先生は確固たる理念があるのか」きっとあるように見えているのだろうと思いながら「過去たる崇高な信念なんてないです。ただ公平でないと我慢ができないタイプ。」月から言葉が飛び出して私ってそんなこと考えていたのねと後付けで付いてくる私の中身。
 このブログもそうだ。書いてしまって、これって本当かなと思いながらも書いてしまうとなんだかそんな気持ちになってくるから不思議だ。まさに言葉が人を作っている。人の考えがあるから言葉があるのではなくて言葉があるから、人の考えがあるというものだ。なんだか他人や偉い人や学者が立派なことを言ってるように聞こえて、その人が立派な人のように錯覚してしまうが、本当は言った言葉があるから、その人の考えが立派に見えるだけなのかもしれない。言葉が人を作るから、本当はそう思っていなくても、違うことを言ってしまう人は本当に気の毒だ。だんだん、言えば言うほどそういう人になってしまう。変人が変なことを言えば言うほど、変人が加速する。

 社会福祉士は、できるだけ人の多様性を認める必要があるけれど、援助の対象者に対してはそうする人も多いけれど、意外と保守的な人も多い。援助する側の多様性は認めないタイプが多いのはなぜだろう。一面だけで人を評価するのはなぜだろう。それはきっと援助する人のおごりがあるからだと思う。自分より下のもの庇護すべきものに対しては、寛容でも自分より強いものや自分と同じ立場の人には、非寛容だ。それはきっと人格高潔でないのに人の世話をすることに慣れてしまったからだと思う。人の世話をするということは人に貸しをつくって自分の立場を強くすることだからだ。しかし真の援助は、相手が自立することだから、援助者のおかげで立ち直ったと思われるような自立は真の自立と言えない。立ち直ったのはその人の力だからだ。できるだけ援助しないで自立できるのが一番いい。できるだけ世話をしなのがよい援助だ。私もそうだが、援助したがる傾向が強いと反対に自立を損なう。
 受講生から「どうして今の仕事に一生懸命になれるのか?」との質問に答えはあった。「援助すると気持ちいいから。一体化できるから」が本当だ。しかし、こちらが気持よくなるために援助してたのでは受ける側はたまったものではない。受け側も一体化したいひとならうれしいが、ひとたび一体化したら離れることが大変だ。自立できなくなってしまう。

 いろいろしゃべっていてあらためて気づくことが多い。

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よく考えてみよう

 講義で人前で話すとき、話しながら「おや?」と気づくことがある。話してしまって、私ってこんなことを意識していたんだ。こんなことを理解していたんだと気づく。つまり言葉が先であとから自分を認識している。今まで自分はかかしさんみたいのもので、中身がないという感覚が付きまとっていたが最近人前で話すと、「センセ。よくそんなにぺらぺらと話せますね。」と言われる。中身がなくて空虚だったり、自分がない感じがして、自分がある人に憧れをもっていたが、最近はもしかして、中身ができつつあるのだろう。
 講師業は遠いし、安いしでいつやめようかいつやめようかと思いながら2年目を迎えた。しかし、やってみた価値はあった。こんな講師の話を聞く受講生の立場も考えると気の毒だけど、せいいっぱいやってるのだからしょうがない。

 昨日補講のため、たった一人の受講生に話をしていて気がついた。「福祉の仕事は、専門知識よりも実際に問題にぶち当たった時は、自分のあたまで本当によく考えれば、何がどうなっているのかわかる。」制度でもなく、心理学の知識でもなく、人を援助することは、生きることをささえるのに他ならない。自分で考えて自分の意思をもつこと、吉本隆明も哲学者の誰もがそういっている。

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太陽がみていること

 先週金曜日明りを学童へ迎えに行ったかえり、みーちゃんもインフルなんだって明りちゃんはかからないねえという話をしていたら、明りが「気をつけて手を洗ったりしないほうがかからないんだよ。」と明りが豪語していた。夕方夕食時明りが赤い顔をして頭が痛いという。熱を測ると38度もある。それからぐんぐん熱はあがり、39度5分になっていた。翌日病院へ連れて行くと見事かかっていた。先生は明りの顔をじっとみてお薬を書いていたが、小さい子には出さない吸入薬のリレンザを出した。リレンザは吸入が難しいので小さい子には出さないと聞いていたが、きっと明りがかしこそうだったので出したのだろう。リレンザは1回だけですぐに熱が下がり始め翌日にはすっかり下がっていた。しかし、日曜の仕事はキャンセル月曜日はおじいちゃんに頼まざるを得ない。こういうとき組織にいたなら他の人と調整はできるのだろうけれど、私が休めば交代に講義する人もおらず、今月卒業する受講生のための代替日はもう取りにくい。独立するなら子育てがおわってが無難かなとおもいつつ過ごした。
 明りは終日寝て過ごし、明りはおとなしくだまって寝てることがすくないから、とても自宅での仕事がはかどり、報告書が作成し終わる。
 
 文章は見直しても見直してもどこか、おかしなところがみつかる。主語と述語が対応していなかったり、受動態と能動態がばらばらだったり、作文が苦手なのはわかっていたが、小学生からやりなおしたくなる気分だ。どこか脳に欠陥があるに違いないと思わざるを得ない。これでよく今まで社会人をやってこられたとつくづく思う。頭ではすごくよくわかっているつもりなのに表現することができないもどかしさでいっぱいだ。
 
 今週の仕事を乗り切るにはどうしてもインフルエンザにはかかれない。らせん状になったRNAの塊のウィルスをボクシングのグローブを持ってやっつけるイメージを何度も思い浮かべる。報告書ができたとここで気を抜くとかかりそうで怖い。病は気から、自分に言い聞かせて早く寝た。
 ドラゴンに襲撃される夢をみる。私もそらを飛んでドラゴンと戦うが苦戦し、やっつけられないまま仲間が少なくなり目が覚める。
 
 真っ赤な夕日が沈み急に空気が冷たくなる。人は家族と言う構造の中で母をやって、社会の中で講師の役割をもっている。それらの役割から生きてる実感を得ることができている。自分は人とのかかわりが苦手だと思っていても、人から必要とされていることが実感できると自分が存在する意味がわかってくる。人から関心を持たれているという実感をえると照れたくなる。そんなひとつひとつを太陽は見ている。

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きみまち坂で

 「あなたに抱かれたい。」と書いた恋文は60年前に召集された夫へ書いた
 60年たっても70年たっても赤ん坊をおぶった私がいる
 戦争ほど無駄なものはない
 戦争で得をするものは何もない 
 戦争ほどむごいものはない
 70年間変わらぬあなたへ思慕と反戦の決意
 

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おだやかな時間

 市役所より高い建物はなく、最上階のフロアから林や畑に交じって産業廃棄物の工場や倉庫が見え、曇っていても所沢の高層ビルも見える。天気がいい日には富士山も見れるに違いないと思った。風景と人口規模に似つかわしくないデザインの凝った庁舎には来客もまばらで、やはり周りの風景との差が大きい。食事をしないままきたため、役所の食堂を探しにエレベーターホールへいく。片仮名の名前の横に軽食とある。きっと障害者団体に委託した軽食や喫茶を出す店だろうとエレベーターで上に上がった。落ち着いた内装にシックなカウンターと戸棚、オープンキッチンのつくりの食堂には、テーブルがいくつもあり、窓際の右奥には、団体が座っていた。左奥の窓際に座った。親御さんたちらしき女性がオーダーを取りに来る。団体は、手話を交えて話している。きっと手話通訳のボランティアと聴覚障害者の人たちなのだろう。オーダーしたハンバーグセットを小柄な愛嬌のある顔の女性が運んできて「どうぞ」とお皿を置いて行った。
 私のあとには、二人連れや一人でくる年配の客もあり、こんな場所でもお客がくるんだなと思った。クラシックが流れ、落ち着いた雰囲気、広い空間、のんびりとした時間の流れ、のんびりとした風景どれもが、穏やかな気持ちにさせてくれる。幸せな空間と時間だった。お客もやさしい、店員もおだやか風景も穏やか。忙しいのはいけないなと思った。

 それなのに、そのあとすぐに時計を抱えたウサギになっていた。
 「別の施設に移ってもいいですか?」「どうぞどうぞ」本人の意思の尊重が大切と自分で言ってるのだから、聞かなくてはならない。しかしいつも「どうぞどうぞ。はいそうです。」

 授業で受講生の必要なものを3つあげてもらっている。「衣食住、愛、家族、趣味、お金、友人、仕事、人とのかかわり・・・」必要なものに少しでも近づくために、10か所特養を申し込んだ。東京はさすがに規模が違うどこも待機者1000人なのだ。700人とか500人とか切りがいい数字ばかりなのは、数えてもしょうがないからだろう。宝くじも申し込まないと当たらない。期待しない日が1カ月過ぎ、特養から電話がある。「2番目になりました。」くじに当たった時と同じうれしいようなはずかしいような気分になる。。人情と気概のある認定調査員の顔が思い浮かぶ。あとは、施設が問題だと言われる行動がある人を受け入れる気概があるかどうかだ。

 夕方5時30分には銀行の中にいた。口座解約の手続きがそろそろ終了するころ、銀行員からプライベートな相談を受ける。ついつい「社会福祉協議会ではこういう事業があって、それなら地域包括に行けば申請してくれる。・・・」いくつもいくつもアドバイスしたくなる。しかし、銀行員は遠慮して、一つのことだけを聞いてうなずいた。銀行員の考えている場面が頭に浮かぶ。聞いてみるとその病気だと言う。その銀行へは苦情があり解約に至ったのだが、その銀行員とは穏やかな交流をすることができた。波長が合うと相手の考えていることがよくわかる不思議な瞬間だ。

 忙しく動き回っていても時間の流れがゆっくりと感じるときがある。そこだけ時間の質が違う。過去から未来へ向かう私の体験が順番に流れていくのではなく、私にとって意味ある事柄だけが、時間を費やし、記憶の中に固定され繰り返し思いだされる。今日の食堂や銀行員みたいに。過去というのは、過ぎ去ったものではなく。重要な順で秩序立って今それを感じることができるものだ。

 そんなこんな考えながら、猫の糞を捨てに降りたら、外階段からみえる隣の家の桜の木の葉がもうすっかりおちて枝と数枚残った葉が暗い夜空を背景にきり絵のように黒く映し出されていた。
 

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